1975 木曽妻籠レポート

◎ ごあいさつ

私達観光学会は、2年前に、過疎と過密をテーマに、岩手県の宮古に合宿を行ない、そこでの過疎を含む問題点、過疎地の観光等を見、そして去年は、新興観光地の実情を見ようと、能登半島に実地調査に行って来ました、宮古に於いては、過疎の問題は深刻さを増し、どうにもならない行き詰まりを感じ、観光も現地の人々の意気込みとは無関係に、決して成功とは言えない状態でした。
能登に於いても、輪島以外には強力な観光資源はなく、それに、能登に於いて、最も優先されるべきである能登半島全体の総合的・連帯的観光開発は、構想さえもできていない有様で、新興観光地特有の未熟さを感じてきました。このように観光、とくに“過疎と観光”は、私達が常にテーマにしてきたものでしたが、決して現状は華々しいものではなく、見通しも明るくはなかったのです。
このような過程をたどってきた私達が、今年テーマ地に選んだのが、木曽11宿であり、特に焦点を当てたのが妻籠です。妻籠は、これからご紹介するように、過疎の最たるものであった状態から、急成長の観光地へと大転換した地区です。妻籠ほど、過疎地からの脱却に成功し、なお地域的特色を生かしきった観光地は他に例を見ません。一体この観光地はどうやってできあがり、どういう現状で、これからどういう道を歩むのだろうかという事を、私達は調査し考えてきました。

それでは研究の方法を簡単にご説明しましょう。まず私達は a) 歴史 b) 人口・産業 c) 観光 の3つの班を構成し、各パートから、妻籠の全般的アプローチを行ないました。それを終えて、改めて、視点を確立し、妻籠に乗り込んだわけです。実地調査では、アンケートをやったり、妻籠のリーダーであった小林さんに直接お話をうかがったりしました。そして、その後から今日まで、資料や問題点の整理・検討を行なってきました。その結果が今日の発表となったわけです。私達にとって、三田祭は中間発表ではありますが、年に一度の機会でもあり、精一杯力を出そうと努めてきたつもりです。しかし、まだまだ不満足な部分もあります。そこで今日は、皆さんと一緒に妻籠について、観光について、考えてみたいと思います。

 

◎ 木曽

長野県木曽郡。かつては天下の大動脈・中山道が木曽谷に沿って中央を貫き、木曽十一宿がおおいに栄えたものであった。
木曽は木の国である。桧を代表とする木曽の森林は、大和吉野の杉、青森のアスナロとともに昔から日本三大美林のひとつにかぞえられてきた。木曽郡全面積17万haのうち、森林面積は実に94%を占めている。木曽にとって森林はきわめて優良な資源である。しかし、その森林も、木曽に住む人々の自由にはならず、常にその時代の支配者に独占されてきた。江戸時代、尾張藩はいわゆる「木曽五木」を中心として厳しい禁伐を命じ、それを犯した者は「桧一本首一つ」のたとえどおり極刑に処せられたという。明治になっても森林のほとんどは天皇の御料林となりきびしい支配が続き、戦後は国有林となった。現在、全森林面積の63%が国有林である。
山林が多いため、耕地は少なくなる。自由にならない山林と乏しい耕地というきびしい条件のもとで、人々はけんめいに生きてきた。木曽という土地に制約されながらも生み出された特産品は数多い。しかし細い街道に依存する度合いも非常に大きかったのである。明治以降、鉄道が発達し、木曽谷にも中央西線が建設されると、宿場町の繁栄も過去のものとなってしまったのであった。

◎ 最初に「馬籠」があった

妻籠の南に馬籠がある。ここは木曽路で一番小さな宿場といわれ、明治の文豪島崎藤村が生まれ、藤村の大作「夜明け前」の舞台となった村である。昭和22年、地元の人たちによって「馬籠友の会」がつくられ、藤村の生地を記念して藤村記念館が建設された。これは「夜明け前」を読み、木曽に対して強い文学的イメージを抱いて訪れる人々をひきつけるかっこうの観光資源となったが、有名になるにしたがって、文学志向とは無縁の観光客が押しかけてくる結果を招いた。観光客数は昭和35年頃には年間10万人を越え、以後俗化の傾向が強くなった。俗化がひどくなると、観光客の評判が落ち、観光客数が減少するものであるが、特に文学的イメージを抱いて訪れた人々は、馬籠の状態に大きな失望と恐れを感じた。彼らは当時の観光コースからはずれて、馬籠峠を越えた妻籠に木曽のイメージを求めた。明治28年の大火で全焼し、しかもすっかり俗化してしまった馬籠に対し、大きな火災もなくひたすら過疎化の道をたどり、なかばゴーストタウン化さえしていた妻籠は、皮肉にも彼らのイメージを多少なりとも満たしていた。写真家、画家、そして文学者といった人々は、妻籠に対して町並み保存の要望を残して去って行った。

◎ 当時、妻籠は過疎であった

昭和36年、旧吾妻、読書、田立の3村が合併して南木曾町が生まれた。木曽十一宿のうちで、三留野が読書村に、妻籠が吾妻村に含まれており、それぞれ村の中心地となっていた。昭和35年の国勢調査における旧3村の人口合計は10771人あったのだが、それが昭和40年に9324人、45年に8020人と急減した。典型的な過疎地である。そしてその過疎化の核となっていたのが妻籠であった。

妻籠は慶長6年(1601年)頃から宿駅として始まり、旅人の送迎によって発展したが、明治以降の交通革命は妻籠に大きな打撃を与えていた。その1つは明治末期に中央西線と国道が妻籠のはるか西側に建設されたためであり、またもう1つには大正12年に伊那谷に電鉄が通り、木曽峠越えの貨客輸送がストップしたためであった。男は長男であっても出稼ぎに出て、そして成功した者は二度と妻籠に戻らなかったという。「過疎」という言葉が生まれるよりはやく妻籠は過疎化していた。そして、それに拍車をかけたのが3村合併だったのである。新しい町の中心地は駅のある三留野に移った。旧吾妻村の中心地だった妻籠から役場と中学校が消えた。その上、郵便局と営林署も三留野に統合されるらしいというデマまでとんだ。関西電力の合理化によって社宅が大量引上げするという事情もあった。若者の心は動揺し、妻籠の過疎化はとどまるところを知らなかった。
当時の妻籠の状態をもう少しこまかくみてみると、たが45ha、畑が20haしかなかった。私有林はなく、タケノコや茶も売るほどはとれず、水利権は関西電力のものであった。とにかく貧しく、貯金など全くなかった。部落というものは、一人が動くといっきに崩れ去ってしまうおそれがある。当時の人々は「その時」がいつかとびくつきながら、おのおの公然の秘密のうちに逃げ出す準備を整えていたという。妻籠はまさに崩れる寸前であった。

昭和35年、3村合併に先立って町長選挙がおこなわれたが、このとき役場と統合中学の位置を未確定のまま合併に至ってしまったため、それがしこりとなって残り、政治問題として表面化した。昭和39年、結局町長は辞任に追い込まれ、新しい町長としてちょうど知友岳の先生を定年退職した片山亮善氏が選ばれた。片山氏は就任するとすぐに町の欠点を綿密に調査したが、その結論は「妻籠をどうするんだ」ということにほかならなかったのである。

◎ 妻籠宿保存事業

片山氏はまず新町建設5カ年計画の立案に際して、教育・道路・観光を3つの柱として打ち出したが、観光計画のひとつのポイントとして旧中山道保存事業を組み入れた。これが妻籠宿保存事業の原点であり、妻籠が観光を意識した最初の計画であった。当時の発想の原点は「馬籠の観光客を妻籠までひっぱってこよう」というものであった。町並み保存の要望もあったことであるし、馬籠から観光客が流れてくるルートとして中山道を利用すれば、妻籠に観光客がやってくる可能性は十分にあった。事実、中山道にハイキングコースの道標を立てただけで、観光客はけっこうやって来たのである。

当時、観光係にいた小林俊彦氏が事業の実際上の担当者であった。小林氏は独自のバイタリティで、過疎によって諦念感に支配されはじめていた住民を町のペースにまきこんでいった。昭和40年頃、地域組織への住民参加か、住民による地域の組織化か、どちらが先かわからない状態で、公民館社会部に属していた妻籠資料保存会は、すでに妻籠保存の方向へ動き出していた。これが母体となって、のちに地域ぐるみの組織である「妻籠を愛する会」が生まれるのである。一方、観光産業という実利の面から、妻籠内の商工業者による観光協会も組織された。

数度におよぶ観光診断、学術調査の結果、アメリカのウィリアムズバーグ方式を採用することになった。つまり、「集落ぐるみ家の中の生活を続けながら、文化財として保存し、同時にそれの観光的利用による、地域開発をすすめる」というものである。しかし、住民は当初この構想を理解できないでいた。だが、一方で妻籠宿が他にあまり例をみない文化財であると「思いこませる」ことに成功していたため、公開されるはずがないと信じられていた脇本陣が郷土館としてオープンすることになると、住民たちは過疎脱却が夢物語ではないと気づいて、積極的に町の計画に参加しはじめたのであった。郷土館は観光の中核として機能するように計画されたものであったが、そのねらいはみごとにあたり、観光客の増加がみられた。

昭和43年、長野県が明治百年記念事業のひとつとして妻籠宿修復保存事業をとりあげたことによって、計画はいよいよ本格化した。そして、予定の工事が半ば進み、その形態がやや目立ちはじめると、妻籠は異色の観光地として脚光をあびるようになったのである。

◎ 成功のためのポイントを整理すると

T 地域の特殊性を徹底的に追求

@)過疎が妻籠に与えたもの

人間面 → 住民のまとまり
資源面 → 豊かな自然
資源面 → 宿場町残存

A)馬籠の存在

「夜明け前」によってかためられた木曽のイメージを小説の舞台である馬籠ではなく、妻籠でみたす

U すぐれたリーダーの存在

イ) 自治体だけでなく、住民までもひっぱってゆくだけの説得力

ロ) 素人考えで押すことなく、専門家に観光診断調査を依頼

ハ) 外部資本の進出を阻む対策

 

◎ 妻籠と俗化

妻籠を研究する場合必ず問題になるのが俗化であろう。背景にもあるように、妻籠は俗化を避けることから出発し、事実俗化を極力押さえている観光地であると言える。そこには、パチンコ・雀荘は勿論、喫茶店・赤ちょうちんの類も一切締め出している。自動販売機さえも置くのを認めていない状態だ。だが、観光地となり人が来るだけで、あるいは人が住むだけでも、俗化の条件は備えていると言ってもよいのである。それに、俗化は定義はできるが、それは抽象的であり、具体的なものとなると、個人の主観に大きく左右されてしまう。
歴史的に見てくると、妻籠は俗化を許されない観光地である。だが、だんだんと受け入れ側が観光ズレしてこないとも限らないし、馬籠が先走ってしまった場合妻籠が俗化の波にどれだけ耐えていけるか不安も残る。とにかく、妻籠にとって、単なる一過性の観光地で終わらないためにも、俗化は今後とも真剣に取り組んでゆかねばならない問題であることは間違いない。

◎ アンケートの総合分析

我々は木曽路においての観光の現状とその問題点を考える意味で、最も適当かつ正確なデータとなる観光客の生の声を聞くべく、夏合宿中、木曽路(主に妻籠・馬籠・奈良井)において街頭アンケート調査を行なった。
男女の比率は1:2。これは最近の観光客の実態にあてはまる。男性では20歳前後の社会人、ついで中年層が多い。女性では主婦その他の割合が比較的高いが、これは家族連れの多さを物語っている。
次に動機について、男女とも(特に女性ではめだって)口コミ、マスコミの影響による物が多く、これは最近の風潮としてとみに名高いアンノン族(つまりイメージ族集団)の襲来は木曽路においても顕著であると言える。
「夜明け前」を読んだことがありますか? この問いは木曽路と藤村の結びつきを知る為にもうけた。全世代に渡って存在は知られていたようだが、「読んだ」人が意外に少ないのは我々にとって期待はずれだった。
地域別に見るとやはり中部・東京・関東の比率が高く、地元の人は乗用車、遠方になるにつれて周遊券利用の割合が高くなっている。
動機と感想を比較してみると、おもしろい結果が得られた。つまり、木曽路を旅行する動機が明白な者、言い換えれば、木曽の本当の姿に接したかった者程満足しており、反対に動機がはっきりしない者程、「人が多い」「俗化している」という意見が多かったことである。我々は、前者に多く接したかったわけだが、現実には木曽路の観光を支えるのは後者が多くを占めている。
明確な自意識を持たず、美しい町並みをガヤガヤ騒ぎながら通り過ぎる彼等、彼女等に、現在の木曽路の観光が支えられているのかと思うと、我々の気持ちは増々沈んでいくのである。

◎ 総論

短期間のうちに観光化に成功した妻籠には、これから先、様々な問題が出てくる事は想像に難くない。まず、宿場町という木造建築物の集合体にとって、火災・補修は一番の難問であろうし、周辺環境の良好さの維持も考慮されなければならない。
しかし、私達がここで最も取りあげたいのは、住民の意識である。彼らは、村の存続が問題とされる程の過疎から一転して億万長者になったわけだが、それを可能ならしめたのは“家”である。が、家は史跡保存として存在するのであり、いわばアナクロである。アナクロ的環境に人が身を投ずるならば、矛盾は必ず起こって来る。つまり、経済力がついた彼らの意識は都市化し、より便利な暮らしへの欲求が起こってくる。帰ってきた若者、嫁いできた嫁、そこに生まれる子供、…彼らがひとつ屋根の下に住む場合、体験から生ずる意識のズレは今後増々深まりはしないだろうか。今の所、矛盾は均衡を保ち、その均衡の上に現在の妻籠はある。だが、将来も同じ形で均衡が保たれるとは言いきれないだろう。
そう考えていった末、私達は次のような結論にたどり着いた。それは住民の妻籠脱出である。住民にとって経済基盤である妻籠を失わず、かつ自己の欲望充足のために、彼らは脱出を企てる。そして、彼らは、妻籠地区を外部から経営するのである。それは、無人化とか、自己の通勤、あるいは雇用による経営であろう。そういう日のために、現在は資本の蓄積段階と捉える事もできる。妻籠は外部資本の導入をかたくなに拒んできたが、それは結果的に内部の資本力育成となっているのである。特に運命共同体の意識の強い住民達が結束すれば、私達の仮説が極論、短絡的とは言えなくなってくるだろう。そうなった時の妻籠が果して、俗化しているか否かは、その世の判断に任せるしかない。
こう書いたからと言って。現在の妻籠の優秀性が損なわれているわけではない。現在、観光について語る時、問題になるのが、観光開発か、自然保護かということである。しかし、これはどちらか一つという二者択一的ジレンマではなく、それの止揚を旨とするべきであろう。自然そのままでは観光地として不備な面も出てくるし、業者本位の開発は勿論いけない。これからは、積極的に自然に手を加え、魅力ある観光地をつくることが要求されてくる。その先駆的代表観光地として、妻籠は位置づけられる。妻籠はたしかに演出された観光地ではあるが、文化の創造という面も持っている。これから先の観光地として、妻籠はますますその存在の意義・重要性を高めるであろう。

※ その他の展示原本

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